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イザニュースまとめ

イランなどでサウジアラビア政府への抗議デモが激化したことを受け、サウジはイランとの国交断絶を発表した。この背景には、シーア派大国のイランとスンニ派の盟主サウジという「宗教対立」があるといわれるが、そもそも対立する理由やその違いとは何なのか。


サウジアラビア、イランとの国交断絶を発表

サウジによるシーア派聖職者の死刑執行に対する抗議デモが背景に

サウジアラビアは1月3日夜、イランとの国交を断絶すると発表。サウジ政府は2日、テロ活動に関与したなどとしてシーア派の高位聖職者ニムル師ら47人を処刑。イランのテヘランでは2日夜から3日未明にかけてこの処刑に抗議する群衆がサウジ大使館を取り囲み暴徒化、一部が館内に乱入したり火炎瓶を投げつけたりした。

サウジ、イランと国交断絶

もともと、「シーア派の総本山」イランと「スンニ派の盟主」サウジは対立関係

イランはシーア派の総本山ともいえる立場で、サウジでは少数派のシーア派住民とも密接な関係がある。一方、スンニ派の「盟主」を自任するサウジは、シーア派が域内で影響力を伸ばすことを強く警戒している。

サウジ・シーア派処刑 バーレーンやイラクにも抗議デモ拡大 スンニ派との宗派対立深まる

抗議はイラク、レバノンなどでも起き、宗派対立が中東各地に拡大

イランの最高指導者ハメネイ師も1月3日、聖職者らの会合やツイッターでニムル師の処刑を非難。イラクでも、シーア派指導者サドル師が首都バグダッドのサウジ大使館前に立ち、抗議を呼び掛け、レバノンのシーア派組織ヒズボラやバーレーンでも同様の声があがっている。

サウジ、イランと国交断絶 シーア派指導者処刑で対立激化〔2016年1月4日 CNN〕

ニムル師は2011年の民主化運動「アラブの春」でサウジ王室の追放を主張。12年に逮捕され、宗派間対立をあおった罪などで14年に死刑を言い渡されていた(写真はロイター)

死刑に処されたシーア派の高位聖職者ニムル師

ニムル師は2011年の民主化運動「アラブの春」でサウジ王室の追放を主張。12年に逮捕され、宗派間対立をあおった罪などで14年に死刑を言い渡されていた


スンニ派とシーア派、なぜ争う? 対立の起源は

世界のイスラム教徒、スンニ派は8割、シーア派は1割強

米世論調査機関ピュー・リサーチ・センターによると、世界のイスラム教徒の数は推計で約16億人。そのうちスンニ派が約8割、シーア派が1割強を占めるとされる。

イラン、イラク、アゼルバイジャンなどシーア派多数の国もある

シーア派が多数の国もあり、イランでは9割を超え、アゼルバイジャンで7割前後、イラク、バーレーンでは約6割を占める。レバノンでは両派がともに3割弱、キリスト教徒が約4割という人口構成。そのほか、アフガニスタン、パキスタン、シリア、サウジの東部などにも、比較的大きなシーア派コミュニティーがある。

イランもかつてはスンニ派が多数を占めていたが国教化された

イランではかつて、スンニ派が多数を占めていたが、シーア派系の教団だったサファヴィー朝がイランで勢力を広げ、1501年にシーア派が国教になると、シーア派の人々がイランに集まった。その後、王朝が変わるたびに宗派や宗教の勢力図は変化したが、1979年にイスラム革命が起き、イランではシーア派の教えが国造りのもととなった。

両派対立の発端は、ムハンマドの後継争い…信仰の拠り所で違い

開祖ムハンマドの死後、その血筋を引くアリこそが唯一の正統な後継者だと主張する人々が現れ、4代目カリフのアリに従うようになり「シーア派」を作った。一方、「血筋に関係なく、コーランやハディース(ムハンマドの言行録)の記述や、イスラムの慣習を守ることが大事」とする人々は別のカリフを選び「スンニ派」と呼ばれるようになった。

多少の差異はあるが、お祈りなどの決まりはほとんど同じ

コーランを聖典とすることや、聖地メッカへの巡礼、年1回の断食月(ラマダン)など、ほとんどの決まりは両派で同じ。違いは、お祈りの回数(スンニ派1日あたり5回、シーア派同3回)や、シーア派は宗教指導者の墓参りをしたり偶像崇拝に寛容であるのに対し、スンニ派はそうでないことなど。

大きな違いは、シーア派にだけ祭礼「アシュラ」がある

シーア派を象徴する宗教儀礼が、イスラム暦の1月10日に行われるアシュラの祭礼。アリの息子でシーア派が第3代イマーム(指導者)とするフセイン(ムハンマドの孫)が、680年にカルバラでウマイヤ朝の軍に殺されたのを悼み、シーア派の人々が剣を掲げ、鎖の房で背中をたたいて行進する。「血だらけのお祭り」「血まみれの行事」と呼ばれることもある。

スンニ派VSシーア派…対立激化のきっかけはイラン革命

両派の対立激化のきっかけはイラン革命。イランの対岸にある湾岸諸国には、国内に多数のシーア派の住民が存在しているために、イランが革命の「輸出」をして現政権の転覆を図るのではないかと危惧。イラクは1980年にイランに侵攻。サウジなどペルシャ湾岸の6カ国は81年、湾岸協力会議(GCC)をつくり結束。


「宗教対立」にみえるが実態は「覇権争い」?

「スンニ派とシーア派の対立は、単純な宗教対立とは違う」(池上彰氏)

ジャーナリストの池上彰氏は「実はイスラム世界のスンニ派とシーア派の対立というのは、宗教的な対立というよりは、『この土地は誰のものか』『この石油は誰のものか』という争いが多い。単純な宗教対立とは違う」という。

シーア派が行っているのは「政権を握るスンニ派」に対する「反政府活動」(中東研究家)

中東研究家の岩永尚子氏は「(中東の多くの国で)政権を握るスンニ派に対し、シーア派は数の上で優っていたとしても政治的には少数派。そのため…貧困層となってしまっている場合が多い」という。シーア派は、「反政府活動」を行っているのであり、スンニ派はそれを「脅威」と見ていると対立の構図を説明する。

「実際には『イランと周辺国の対立』」(朝日新聞テヘラン支局長)

朝日新聞テヘラン支局長の神田大介氏は「中東で宗派対立と呼ばれている事柄は…実際には『イランと周辺国の対立』であり、宗教的な正統性」をめぐるものではないとし、シリア内戦で、イランがシリアのアサド政権を支持するのは同じシーア派だからではなく、シリアが、イランの支援するヒズボラの武器・資金ルートになっているためと指摘。